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東京高等裁判所 昭和54年(う)1111号 判決

主文

本件控訴を棄却する。

当審における訴訟費用は被告人の負担とする。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人高崎尚志・同佐藤敏栄が連名で提出した控訴趣意書に記載されたとおりであるから、これを引用する。

所論は事実誤認の主張であつて、要するに、本件衝突地点は被告人運転車両(以下「被告人車」という。)の車線内で、中央分離帯から内側に0.5メートル、同車の停止位置から市原市田原方面に3.8メートルの地点であり、遠藤尚男運転車両(以下「遠藤車」という。)は中央車線と平行に走行中の被告人車に約二〇度以下の角度で接触し、接触面が拡大したのに伴つて急速に回転して第一次衝突を生じ、被告人車は遠藤車に完全に乗り上げられたまま後退と回転を続け約四五度の角度で第二次衝突を生じ、引続きローリングし約五〇度の角度で遠藤車は右前部を被告人車の右前ドア部に激しく衝突させる第三次衝突を生じて停止したもので、衝突前の速度は遠藤車は約四〇キロメートル毎時であり、被告人車は当初約四〇キロメートル毎時であつたが衝突直前にハンドルを左に転把するとともにブレーキをかけて約一五キロメートル毎時の速度となり、合計約五五キロメートル毎時の速度で衝突したものと考えられるところ、右両車両のつぶれ量は極めて大きくこれによつて推定される衝突時の合計速度は一八〇キロメートル毎時以上と算定されるが、これは遠藤尚男が衝突前からアクセルペダルに足を乗せ、居眠か脇見の運転をしていて突然生じた第一次衝突によつて同人の足に体重が加わつて自動的にアクセルペダルを踏み自車を加速し続け、前記のとおりの複数回の衝突を生じてつぶれ量が増加したためであり、右両車両の接触擦過痕、圧痕等の方向、高さ等の諸関係から右衝突の経過を全て合理的に説明することができ、右両車両の乗員の大部分についても車体の回転、衝突の方向と受傷の方向とが合理的一致をみるから本件事故は前記のとおりの態様のものであつて、被告人には何らの過失も存しないにもかかわらず、原判決は、遠藤車が被告人車線に向つてきたという点で一貫している被告人の捜査段階以降の供述を変転していて措信できないとし、遠藤車線内の散乱物にのみ気をとられ多方面の探索を怠り、たやすく同車線内の事故と軽信した原審証人高品高男及び事故直前に急ブレーキを踏んだなどと事故状況に符合しないことを述べて信用できない原審証人遠藤尚男の各証言によつて被告人の過失を認定したものであつて、明らかに判決に影響を及ぼすべき事実の誤認がある、というのである。

しかしながら、原審記録を調査し、当審における事実取調の結果をも併せ検討すると、被告人について原判示の過失を優に肯認することができ、原判決に事実誤認があるとは認められない。以下所論にかんがみ若干付言する。

一  先ず、関係証拠によれば、(1)本件事故現場付近は幅員6.9メートルの中央線のあるアスファルト舗装道路で、被告人の進行方向についてみると、市原市米原方面から3.4パーセントの下り勾配ののち頂点の角度が一三六度の左カーブを経て3.6パーセントの上り勾配の直線路となつており、本件事故当時降雨のため路面は湿潤して滑走し易い状態にあり、降雨時に同カーブを四七ないし八キロメートル毎時の速度で通過すると中央線に右車輪がふれて中央線を越える寸前のような状態となること、(2)本件事故後約五〇分して開始された実況見分時において、東方電電支線から11.8メートル、南方東電電柱平三87から16.5メートル付近(前記カーブの頂点から68.4メートルの地点)で道路北端から2.1メートルの地点に遠藤車の前部に被告人車の右側方中央部分が喰込む形で両車は停車しており、遠藤車は自車線内にあつて、その左前・後部は道路北端からそれぞれ1.7メートル、0.4メートルの地点にあり、被告人車はその大部分が遠藤車線内にあつて、その左前部は中央線を越えて道路南端から2.95メートルの自車線内に、右後部は道路北端から1.3メートルの遠藤車線内にあり、両車の付近にスリップ痕は認められず、右停止地点を中心に両車のガラス破片、ホイルキャップ、モール、ルームミラー等が散乱しており、右ガラス破片は被告人車の下付近、遠藤車の前付近に落ちていたこと、(3)被告人車は右側前部ドアから後部ドアにかけてくの字に凹みドアの開閉ができない程度に破損し、フロントガラスが壊れて車内にも相当量のガラス破片が落ちハンドルの一部に亀裂があり、遠藤車は前部正面ラジエーター付近が凹みフロントガラスが壊れて車内にも散乱しており、右側前照灯は破損し、ボンネット、前部両ドアが開いたままで左前ドアは開閉不能になつていたこと、(4)両車乗員の受傷状況は、被告人車は被告人が頭部挫創、両側坐骨骨折等で入院四二日間、その後部座席の田中稔が脳挫傷等で加療約一年間、助手席の北原政利が鼻部挫傷等で加療約五日間、その後部座席の山崎豊が腹部打撲挫傷で加療約四日間であり、遠藤車は遠藤尚男が肝破裂、後腹膜血腫等で加療約一年間、助手席の遠藤澄枝が脳挫傷で死亡、その後部座席の南原五角が顔面打撲等で加療約二週間、右隣りの遠藤平八郎が右上顎歯槽骨骨折等で加療約二四日間、隣りの遠藤なおが口唇・下顎挫創等で加療約二週間であつたことが認められる。

二  そこで、関係者の本件事故についての供述を検討すると、

1  原審証人遠藤尚男は、自車前方約七一メートルに被告人車を初めて認めたが、同車は前記カーブから直線路の少し手前付近にいて向つて右側のガードレール付近でハンドルを右、左に切つているような蛇行状態であり、不審に思つてアクセルペダルから足を外して減速し、妻が「何」と言つたのに気をとられて一瞬同車から目を離したもののその直後に、車首を中央線に向けて横向きの状態で遠藤車線内を横滑りして来る被告人車を自車前方三二メートルの地点に再び認め、ブレーキを踏んだが間に合わずそのままの状態で被告人車の右側中央部分が遠藤車の正面に衝突し、約一メートル押戻されて停止したものであつて、遠藤車の速度は最初被告人車を発見したときは約四〇キロメートル毎時で、再度被告人車を認めたときは約三〇キロメートル毎時であり、被告人車の速度は六、七〇キロメートル毎時であると思つた、本件事故後近くの店で横になつて休んだ旨証言している。

2  本件事故前・後の遠藤車の動静等を現認した原審証人常住宗一は、前記停止地点から約二〇メートル程市原市田尾方面に進んだ道路南側にある十石屋鮮魚店の主人で本件事故関係者とは何ら利害関係を有しないところ、遠藤車は同店前付近において同市田尾方面から米原方面に向けて道路北端の路側帯に沿つて自車線内を約三〇キロメートル毎時位のゆつくりした速度で進行しており、同車が後部を振つたりスリップしている状況ではなかつた、一、二秒してどんという衝突音を聞きその方向を見たら既に両車は衝突していた、本件事故後遠藤尚男が同店で休んでいた旨証言し、遠藤尚男の妻の実父である前記南原五角は、検察官に対する供述調書において、私たちの車線上で衝突したことは間違なく、衝突と同時にがくんと来ただけで車が滑走するということはなかつた旨述べている。

3  前記原審証人遠藤尚男の証言は、実況見分時の指示説明と一致し、詳細、具体的であつて被告人車の現認状況等も自然、合理的であるばかりでなく、前記客観的状況から推認される本件事故の態様とも符合し、また前記原審証人常住宗一らの証言等にも添うものであり、右に加え、本件事故前日の行動や生活状態に照らしても同人が本件事故当時居眠とか心理的脇見の運転をするような特段の事情は窺われず、なお、同人は肝破裂等の傷害を負つているが、本件衝突の激しさ、遠藤車の破損状況からして同人が本件事故直前にブレーキを踏んでいても右受傷は十分考えられるところであるから、右の受傷状況から直ちに同人がブレーキを踏んでいなかつたとか衝突直前まで被告人車に気付かなかつたとはいえないのみならず、前記のとおり遠藤尚男は被告人車を発見したのち一時同車から目を離しているがこれは約四〇キロメートル毎時(秒速は約11.1メートル)の速度で約17.4メートル進行する間に生じたことでしかも動機の存する行為であり、このことから直ちに同人が本件事故直前に居眠とか心理的脇見の運転をしていたといえないことも明らかであり、以上検討した諸点に照すと前記原審証人遠藤尚男の証言は措信するに足るといわなければならない。

4  これに対し被告人の捜査段階以降の供述は、遠藤車が被告人車線に進入してきて被告人車線内で衝突したあと前記停止地点に停止したとする点は一貫しているものの、(1)被告人立会の実況見分及び司法警察員の取調の際は、遠藤車が約二九メートル前方(前記常住方付近)で被告人車線に急に入つて来て危いと思つたが咄嗟のことでブレーキを踏む間もなく自車の右中央付近に遠藤車の右前部付近が衝突した旨述べ、(2)検察官の取調の際は、遠藤車と擦れ違つたころ同車の右前部が被告人の方に寄つて来る気配を感じこつんという音が聞えたので左にハンドルを切つて止ろうとしたところ今度は相手の右前部角付近が自車の運転席のドアに大きくぶつかつた旨述べ、(3)原審公判廷においては、約五メートル前方から遠藤車が中央線を越えて来たのでハンドルを左に切つたところ、はつきり判るような角度ではないが遠藤車が自車右ドアに衝突した旨述べており、遠藤車が被告人車線に進入した時期、場所に関する供述には大きな変遷がみられるばかりでなく、(1)の供述は前記原審証人常住宗一の証言に明らかに反していること、(2)、(3)の各供述は、被告人車線に入るまではその運転状況に異常のなかつた(このことは被告人も認めている。)遠藤車が衝突直前の極めて短時間、短距離のところで突然被告人車線に進入するという異常運転をなし、しかもこれを認めた被告人がこれを回避するためハンドルを左に切りそれが有効に作動したとするものであつて、その供述内容の合理性には強い疑問が存するばかりでなく、前示のようなスピン状態を起しやすかつた本件道路状況や遠藤尚男の証言に加え、関係証拠によれば、被告人は、昭和五〇年四月に自動二輪の運転免許を取得してその運転歴を有するものの普通自動車の運転免許は昭和五二年五月に受けたもので本件事故まで約三か月四、五千キロメートルの運転歴を有するに過ぎない初心者であつたと認められることに照らすと、被告人が捜査以来一貫して述べる事故態様も本件において、実際は被告人が急ブレーキを踏んで左にハンドルを切り車体の方向が急激に変わるスピン状態に陥つたものであるのに、被告人は、そのことを的確に認識できず、自車線内を直進か左斜め方向に進行しているように考え、自車真横に遠藤車が来ていることを同車が右ハンドルを切つて被告人車の方に直角に向つて来たと錯覚したことに基づいて述べるものではないかとの疑いも否定できず、以上の諸点から被告人の右各供述はたやすく措信し難いといわざるをえない。そして原審証人北原政利は、本件事故前に被告人車がきしむとか揺れるとかの感じを受けなかつた旨証言しているが、当時同人は助手席で居眠をしており、しかも被告人車の横滑りは短時間生じたに過ぎないことも併せ考えると、同人が衝突前の被告人車の走行状況を正確には握できたかは疑問であり、これによつて被告人の供述の信用性についての前記認定は何ら左右されない。

三  もつとも弁護人提出の松野正徳及び菅原長一作成の鑑定書、鑑定書の補足書その一ないし三、右両名の当審における証言(以下松野ら鑑定と略称する。)によれば、本件衝突地点は被告人車線内の前記所論のとおりであり、両車とも四〇キロメートル毎時の速度で走行中遠藤車が中央車線と平行に走行していた被告人車(衝突直前に左にハンドルを切りブレーキをかけて約二〇キロメートル毎時の速度に減速していた。)に約一五度の角度で進入接触し、次いで三五度の相対角度となつて第一次衝突となり、遠藤尚男がアクセルを踏み続け下り坂で同車が被告人車より一八〇キログラムも重くなお二、三〇キロメートル毎時の速度を維持していたことから遠藤車が被告人車に乗り上げ被告人車の右側前後輪を地上からタイヤが浮上する寸前まで押上げて強力に後転転回(トレーラーバック)させ、被告人車は約2.5メートル後退して相対角度がほぼ九〇度となつたところで遠藤車は被告人車から落下したもののなお前進力があり被告人車も四輪着地したため再び遠藤車が被告人車を相対角度ほぼ四五度で衝撃的に押す第二次衝突を生じ、被告人車は時計廻りにローリング回転し、これが終了した時点で被告人車はパンクの影響もあり殆ど停止し遠藤車はなお前進力を有していたため同車の右前部が被告人車の右前ドアに約五〇度の角度で第三次衝突を生じ、遠藤車は0.3ないし0.5メートル後退して停止したとして所論に添う趣旨の見解を述べるのであるが、(1)まず、鑑定方法について検討すると、その方針として、純客観的資料のみを基礎とし、不確実性の存する供述、証言等は極力考慮外としたとしながら、基礎資料の不足を自認しているのみならず、そうであれば一層厳しく鑑定方法の選択が重視、検討されなければならないところ、松野ら鑑定は被告人が衝突直前に急激なブレーキやハンドル操作を行い、そのため回転トルクを生じ、それと同時にたまたま両車が接触を開始したことなどにより従来の一般的公式では解析し得ない現象となつたとして客観性のある鑑定方法の採用を放棄しているのであつて、しかも理由の基礎となるものは被告人の前記供述とブレーキをかけることは運転者の普遍的な動作であることから推定されるとする被告人の前記運転動作であり、また前記のような複雑な衝突を惹起した重要な要素として遠藤尚男の居眠又は心理的脇見の運転による遠藤車の加速を挙げているものの同人の運転状況の認定は同人及び被告人の供述が大きな役割を果していると認められ、とくに衝突前に四〇キロメートル毎時の速度であつた被告人車が0.7ないし0.8秒といつた短時間のうちにその前進力を失い右衝突の際は殆ど前進しなかつたとする根拠として被告人が松野正徳に対して殆ど止つたような気がしたと述べたことを挙げるなど、本件事故態様を究明するに当たり重要な諸点について被告人らの供述等に依拠していることが明らかであり、その鑑定方針が客観性に徹底していないこと、(2)松野ら鑑定は接触衝突の痕跡写真を基にして接触点による損傷、外力による間接的な変形等について作用部位毎に力の方向、強さの比較等の技術的検討を加え、本件事故が三次に亘る衝突であつたこと及び最初の接触点の位置、衝突実態を推定し得たものであるとし、それについては両車の対応する接触部分によつて生じた擦過痕、圧痕等の高さ、角度等が符合したとしているのであるが、前掲証拠によれば、この方法は新たな手法であり、衝突による物体の変形については学問的に確立されたものがないため、専ら菅原長一の板金プレスについての一〇年以上の経験のみがその判断の根拠となつていることが窺われ、その経験や意見は貴重なものではあるとしても、なお鑑定人の主観に片寄つた鑑定結果として客観性を欠くとの批判を否定できないこと、(3)松野ら鑑定が資料の一つとして利用した日本自動車研究所報告の「自動車衝突時の車両、乗員の衝突特性に関する研究」についても、その資料としての重要性は否定できないものの、これは排気量一、六〇〇CCと二、〇〇〇CC、九六〇キログラムから一、五五五キログラムまでの重量の国産の小型乗用自動車を使用した僅か一八例(停止車に対する直角側面衝突七例、両車走行による直角側面衝突一一例)の実験結果を基にグラフ化したものに過ぎず、実験データの不足は否めないばかりでなく、衝突速度推定の根拠となるつぶれ量は衝突車両の重量、衝突部位、角度等によつて差異の生じる可能性が少くなく、しかも本件においては前記実験車両より排気量、重量とも同等以下で使用年数が異なる両車両(被告人車は昭和五〇年一〇月に初度登録された総排気量一、一六〇CC、車両重量八二〇キログラムの車であり、遠藤車は昭和四〇年に初度登録された総排気量一、六〇〇CC、車両重量九四五キログラムの車である。)が衝突したもので、かつ、右資料では実験されていない横滑り車両と直進車両との直角側面衝突である可能性が存するのであるから、右資料の利用に当たつては慎重な配慮を要するにもかかわらず、両車のつぶれ量等を積算した結果と右資料のグラフから両車の推定衝突平均速度が約八〇ないし一〇〇キロメートル毎時であつたとし、これを根拠として①このような大速度での走行は考えられないから原判示のような高速度の直角衝突はあり得ないし、②本件における大きなつぶれ量の生じた原因は遠藤尚男の居眠又は心理的脇見の運転に基因する遠藤車の加速であるとしているのであるが、右衝突速度の結論自体前記のように慎重な検討が加えられたものでないだけでなく、②については原審証人遠藤尚男の被告人車を見てアクセルペダルから足を外したとする前記証言と相反する前提に立ち、しかも遠藤車は当時トップギアになつていて衝突によつてエンジンが停止した可能性が大きく、停止しなかつたとしてもトップギアの加速は最大0.1G程度である押圧力換算でせいぜい一〇〇キログラムと極めて小さくつぶれ量の増大や被告人車の押戻は起り得ないとみられるところ、遠藤車のエンジンが本件事故時も作動していたことを直接窺わせる証拠は存しないことやトップギアの押圧力を右とは異なりもつと過大なものと想定した(前記トレーラーバック時の遠藤車の推力は約三〇トンであつたとさえしている。)根拠が全く示されていないことからすると、②の推論については強い疑問が生じること、(4)遠藤車の押圧力が前記のとおり小さいものとすると、第一次から第三次まで生じたとする衝突の過程を力学的に全く説明できないこと、(5)第一次ないし第三次衝突に1.5秒ないし二秒を要するとされているところ、衝突音で直ちに事故現場に目をやつた原審証人常住宗一は前記のとおり右のような衝突状況を現認していないことなどの諸点に照らすと、松野ら鑑定の信用性には多大の疑問があり、たやすくこれを採用することはできない。

なお被告人車線内で本件事故が生じたとするものには佐々木軍治作成の鑑定書、同補足書及び同人の原審証言もあるが、同鑑定は内容が粗雑であるうえ、その最大の根拠とするタイヤ痕を本件現場写真から認めることができないばかりか両車両の衝突前と衝突後の移動方向が著しく変わるなど力学的に不合理であり、結局衝突直前の状況を被告人指示の衝突地点を参考に直観的判断で推定したに過ぎないものとみられ、到底信用できない。

以上に対し、鑑定人樋口健治作成の鑑定書及び同人の当審証言(以下樋口鑑定という。)によれば、本件事故について、被告人は、約七〇キロメートル毎時の速度で走行中衝突地点から約42.7メートル手前の地点で自車が対向車線にはみ出し、前方約73.2メートルに遠藤車を認め、ハンドルを左に切つたが路面が雨に濡れていて車体が左斜めに傾き始めてタイヤが横滑りし、衝突地点の手前約16.7メートル付近で急ブレーキをかけハンドルを大きく左に切り足したためそこから衝突地点手前一〇メートルまでの間において徐々に車体の傾斜度合を強めながら横滑りし始め、中央線に約七〇度の角度の態勢となつて約四〇キロメートル毎時の速度で被告人車右側面を遠藤車の前部に当初七〇度次いで九〇度の角度で衝突させ、右廻りに約六〇度回転し、約2.0メートル右斜めに前進して約一秒後に停止し、遠藤尚男は、約五〇キロメートル毎時の速度で走行中約42.7メートルの地点に車体を斜め方向にしながら滑走して来る被告人車を認め、急ブレーキをかけハンドルを左に切り約二〇キロメートル毎時の速度まで減速したものの車体の方向が変わらないうちに前記のとおり被告人車と衝突して約1.0メートル押戻され、左ハンドルのため車体は約五度前部を右に振り僅かに左斜めになつて約一秒後に停止したもので、衝突時には被告人車は車体が右側に傾斜(ローリング)し、遠藤車は前下り(ノーズダウン)となつていたとしているが、これは、両車両の損壊状況、乗員の受傷部位、程度、事故地点付近の道路状況などを写真、測量値等から推定し、衝突の力学的計算等工学的手法によつて鑑定結果を導いたものであつて、その手法が科学的、客観的なものであるばかりでなく、本件事故等の客観的状況、原審証人遠藤尚男らの証言等とも符合しており措信するに足るものと認められる。弁護人は松野正徳らの批判を援用し樋口鑑定の信用性について多岐に亘つて論難するのでその主なものについて検討すると、所論は、松野ら鑑定によれば、(1)本件衝突により被告人車の屋根に斜め前方に走る皺が生じているが、この種の皺は車体が何回衝撃を受けたとしても第一回目の衝撃の方向を必ず記録するものであるから被告人車の右前方から斜めに第一次衝突があつたと認むべきである、(2)被告人車右側面のセンターピラーが切断されていることについても、八〇キロメートル毎時以上の衝突速度でなければ一回の側面衝突で右のような切断は不可能であり、六〇キロメートル毎時の衝突速度では複数回の衝突を必要とする、(3)被告人車の右側面には遠藤車のバンパーのオーバーライダー(通称カツオブシ)の圧痕が少なくとも四か所認められるが、一回の衝突ではカツオブシ痕は最大でも三個しかできない、またカツオブシ痕間の距離が一〇〇、七センチメートルありカツオブシの中央部間の距離が八五センチメートルであることから考えても一回の直角衝突ではあり得ないなどと主張するのであるが、前記のとおり右は専ら菅原長一の経験に基づく結論であつてそこに至る理論的根拠が全くないし不十分にしか示されていないばかりでなく、本件が通常の側面衝突ではなく横滑りして来た被告人車が右側面のセンターピラーを中心に遠藤車の前部と衝突したものとすれば、右(1)、(2)のような結果が被告人車に生じ得ないとするものでもなく、樋口鑑定に照らしてもむしろ右衝突態様からはそのような結果が生じたとしても格別問題はないと認められ、(3)のカツオブシ痕の個数、位置の認定自体多分に主観的であるだけでなく、前記のような衝突態様であつてもその過程での両車の位置関係の変化を全く否定できないとすれば一回の衝突であつても多数のカツオブシ痕が被告人車に生じることも考えられ、いずれも前記樋口鑑定の信用性についての認定を左右するものではない。次に、松野ら鑑定によれば、(1)真横に近い衝突では被告人車の乗員四名全員が身体前面に受傷することは有り得ず、ことに被告人が頭部挫創を、北原政利が鼻部挫創を負つていることからして被告人車には前方からの衝撃があつたと解すべきであり、(2)本件が死亡一名、重傷三名、中等傷四名軽傷一名と両車の乗員全員が受傷した事故であつたことについて乗員の傷害度に関するJ―AIS基準によれば相対衝突速度が八〇キロメートル毎時以上となり、実際の相対衝突速度約六〇キロメートル毎時であつたことと相違を生じたのは遠藤車の衝突後の持続的加速と前記三次に亘る衝突が原因であるというのであるが、(1)については、確かに乗員の受傷部位は衝突の衝撃力が作用する方向に乗員が投げ出されるために車体内側の衝突部位によつて特徴的な受傷を生じ受傷部位は投げ出された側に激しくなるとはいえても、個々の受傷部位は事故当時の受傷者の姿勢、意識、行動といつたものによつても左右される可能性があるだけでなく、右受傷部位は身体前面のみに限られているわけではなく、前記のとおり、衝突地点近くで被告人車は横滑り状態に変つたとする樋口鑑定は全体的にみた両車乗員の受傷状況から推認される衝撃力の方向と矛盾していないのであるから(1)の批判は当を得ないものであり、(2)については、当審証人松野正徳の証言によつても事故による乗員の負傷割合の基準自体いまだ統一されたものでないことが認められるばかりでなく、前記J―AIS基準がどのような衝突形態を基に作出されたものか明らかでなく、本件事故が前記のような特殊なものであるだけに直ちに本件に有意義なものとするには問題があり、しかも受傷程度の増大原因として挙示するものがいずれも前記のとおり採用できないものであることを考えると本件への直接の適用には疑問があり、(2)の批判も適切なものではない。また、以上に関連する樋口鑑定に対する批判をみると、そのつぶれ量の計算方法等については、同鑑定によれば、同人はつぶれ量の積算に当たり両車の写真や同型車の構造等を基に推計していることが認められるが、これは誤差を考慮すれば実測した場合と正確性において問題とする程の差がないものとみられ、同人は積算したつぶれ量と前記日本自動車研究所報告所掲のグラフから衝突の際の両車両の近寄速度としての合計速度を求めたところ、被告人車のつぶれ量からは七〇キロメートル毎時、遠藤車のつぶれ量からは九三キロメートル毎時、総合つぶれ量からは八五キロメートル毎時となつて速度にばらつきが生じたところからつぶれ量に修正を加えて近寄速度を六〇キロメートル毎時としたことが明らかであるが、前記のように右グラフを利用するには慎重な検討を要すると解せられ、右修正の過程に格別不合理な点はなく(修正したあとの総合つぶれ量がたまたま当初の被告人車のつぶれ量に等しくなつたからといつて、遠藤車のつぶれ量を〇としたものでないことは明らかである。)、しかも右速度は松野正徳らが最終的に相対衝突速度として推定した約六〇キロメートル毎時と一致するものであつて、かえつてその操作の正当性を窺わせているともいえるから、この点の批判は当たらない。また樋口鑑定は力学的計算を行うに当たり乗員の体重等による重心の修正を行わず両車両の空車時の重心をそのまま使用しているが、右修正による重心の移動は僅かであつてその誤差は重視する必要がないとみられるだけでなく、本件では両車乗員の体重、荷物の重量が明らかでなく、乗員はシートベルトによつて車体に固着されておらず衝突の際車体と同一の動きをしたものではないとみられることをも併せ考えると右のような重心の修正を行わなかつたことに不合理さはないと認められる。そして樋口鑑定に対する批判として挙げられたその余の諸点もいずれも本件衝突の態様から合理的に理解し得るものであつて、樋口鑑定の信用性に影響を及ぼすものとは認められない。

四  以上のとおり原判決挙示の証拠によれば被告人の過失は優にこれを認めることができ、当審における事実取調の結果も右認定に添うものであり、原判決には所論指摘のような事実誤認はない。所論は理由がない。〈以下、省略〉

(千葉和郎 香城敏麿 植村立郎)

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